2005年日本平和大会in神奈川 国際シンポジウムパネリスト発言
ルイス・アンヘル・サーヴェドラ
エクアドル 地域人権諮問基金(INREDH)
軍事基地廃絶国際実行委員会・委員
軍事基地反対世界大会・全国連合(2007年3月 於 エクアドル)
マナビ軍事施設
最初に、川田忠明さんはじめ日本平和委員会の皆様に、招待をいただいたことにお礼を申し上げたい。エクアドルとラテンアメリカにとって、アンデス地域の支配をねらう米国軍事介入の状況を知ってもらうことは大変重要である。
軍事施設
2000年1月に解任されることになるエクアドル大統領ハミル・マワの政権は、1999年11月25日、湾岸都市マンタにあるエロア・アルファロ空軍基地を米国に譲渡する協定を結び、そこで米軍が麻薬取引取締り作戦をおこなえるようにした。この協定は10年ごとの更新が可能である。
協定に規定されているように、マンタ基地はマナビ県にある5つの自治体(マンタ、ポルトヴィエホ、モンテクリスティ、ハラミホ、ロカフエルテ)にまたがる軍事施設である。この航空基地、海軍基地、軍事訓練地域の広さは2万4千ヘクタールにおよぶ。
軍事施設が広域におよぶことから、基地建設にあたっては、地域住民と世論の支持が必要であった。そのため、マンタに利害関係をもつ二つの社会グループで議論がおこなわれた。
まず支配層は、基地案には地域投資の面でいくつか利益があると見た。アメリカの投資で経済が活性すると考えたのである。とりわけ空港が新しくなれば貿易量が増大し、マンタを国の輸出入の中心地にすることができる、と。
彼らは基地がくれば二つの点で安全性も向上すると考えた。まず軍事基地があれば犯罪が起きにくくなるし、反政府運動も抑えられるだろう。第2に、基地は合法的なビジネス活動を促進し、こうしたビジネスに対する理解も深まるだろうということ。港湾当局の関係者は、「港での貿易では絶対麻薬取引はさせないから大丈夫です」と言っている。しかしこの発言のわずか3週間後、マンタを出航したマグロ漁船が、麻薬を積んでいたことが発覚しビルバオで拿捕されている。
基地が利益をもたらすと考えたのは支配層だけではなく、貧困層もそうだった。基地がくれば仕事が来るし、しかも収入もいいはずだと思った。マンタの貧困層は、空港や基地の建設、飲食業、清掃業、運輸業で仕事が出来ると思った。地域の不況と失業率の高さはひどいもので、仕事に就ける可能性は大変魅力的であった。
こうして米軍の到着を地域住民がこぞって容認した。元美人コンテストの優勝者で現在商工会議所副会長を務めるルシア・フェルナンデス・デヘンナにいたっては、有名テレビ番組で「アメリカ人は状況をよくするためにやってくる」と発言するあり様であった。
マンタ基地の戦略地政学的役割
ラテンアメリカの軍事化は、1970年代初頭に調印された米州相互援助条約(ITRA)で正式なものとなった。理論上この条約は、他大陸の国からの攻撃に対する自衛のためにラテンアメリカ諸国に軍事援助をおこなうことが目的であった。この条約により、大陸全土への米軍配備が可能となった。しかし、ラテンアメリカの国が侵略された例として、アルゼンチンがイギリスと戦ったフォークランド戦争を上げるなら、アメリカは欧州の侵略者を支援したのであって、攻撃されたラテンアメリカの国は支援しなかったのである。
実際に、ラテンアメリカでITRAで利益を得た国はひとつもなかった。それどころか、この条約は米国の軍事・経済利益を強化するものであった。よって、ITRAは反共、民主主義と安全の強化、麻薬取引取締り戦争」、対麻薬ゲリラ戦争というアメリカのプロパガンダに加担している。そして現在の言い分は、ITRAは「対テロ戦争」に役立つ、というものである。
ITRAの具体的任務は米国政府と企業の利に資するためでがあったことは、いまやはっきりしている。この条約で、戦略的な資源とこうした資源を持つ国を支配することが可能になったのである。
この支配を円滑にするため、ITRAにより、相当のバイオエネルギー資源、多種多様な生物、水がある地域、また巨大発電プロジェクトを進められる地域に基地を置く道が開かれた。ITRAはまた通信システムを支配し、社会運動の抑制も可能にした。
マンタ基地は、中南米を支配するアメリカの軍事網の一部にすぎない。この軍事網は、キューバのグアンタナモ、アルーバとキュラソー、コロンビアのトレス・エスキーナス、ボリビアのチャパレ、アルゼンチンのパタゴニアなどから構成されている。これらの基地が、その他提案されている計画と合わさって、米国がラテンアメリカのあらゆる地域に24時間以内に介入することを可能にしている。
しかし、米国が行っているのは軍事的支配に限らない。ラテンアメリカ諸国の戦略的資源を入手するために、自由貿易協定がいくつか調印されている。中米のプエブラ・パナマ計画や米州自由貿易地域(ALCA、英語ではFTAA)などである。
これに加え、米国には「麻薬戦争」と称した軍事介入計画もある。南米の北部地域(コロンビア、ベネズエラ、パナマ、エクアドル)を対象とした「プラン・コロンビア」、中央アンデス地域のボリビアとペルーを対象とした「プラン・ディグニティー(威厳計画)」である。
しかし、これらの計画は成果を挙げていないようである。コロンビアでは、コカインとケシの実の栽培は増えているし、米州自由貿易地域(ALCA)は、11月始めマル・デ・プラタで開かれたラテンアメリカ諸国首脳会議で拒否された。
こうした自由貿易計画が失敗となれば、米国が牛耳る大量消費主義システムが生き残るための唯一の道は、ラテンアメリカの残りの地域を軍事介入で支配するしかない。こうなればマンタ基地の重要性は増す。なぜなら、基地がある南米の中部地域は、この地域のどこからも等距離に位置し、天候も軍用機の作戦行動に適しているからだ。
にもかかわらず、人々はナイーブにも、米国が協定を尊重して麻薬取引の取り締まりのみを行うと信じている。米国が協定を守らないなら、基地の存在を許可している協定の終結を要求できる権限を自分たちが持っていると思っているのである。
しかし自問してみる必要があろう。米軍が前例以上に条約を軽視すると決めたとき、一体どのような社会勢力に米軍撤退を要求できる力があるというのだろうか。最近の例でもソマリア、リベリア、アフガニスタン、イラクを見れば答えは歴然としている。米国にとって、侵略こそ最も手っ取り早く最も効果的な政策なのだ。それに、この政策について言えば、マンタは南米の支配に必要な軍事要塞として非常に重要な役割を果たす。軍港と空港は、表面上は地域発展のためということになっていたが、実際はその後の干渉に道を開くものでしかないのが真実であろう。
繰り返される歴史
沖縄、フィリピン、ハワイ、欧州の一部地域において、住民はすでに市民社会にとっての軍事基地の意味を知っており、マンタも例外ではない。
マンタ基地の歴史は、地域社会、とりわけ性産業に陥れられた若い女性に対する無責任の歴史である。多くの少女たちが性的搾取の罠にかかったり、希望しない妊娠や守られない約束により将来の夢を打ち砕かれてきた。
さらに、土地をめぐり農民と軍部との間に紛争が生じている。1975年、エクアドル軍は現在ハラミホ海軍基地となっている土地から住民を追い出した。最初1万ヘクタールの土地が住民から奪われた。今日は、ハラミホ、ポゾ・デ・ラス・サバナスの住民から奪われた土地は2万4千ヘクタールを超えると考えられている。
土地を取り戻すたたかいは終わっていない。例えば、プエブリートの住民は、マンタ基地の周辺でメロン栽培をおこなっている。これは、土地を取り戻す象徴的な行動なのである。抵抗した農民に対しては、農作物が焼かれたり、家屋が壊されたり、脅しを受けた女性が中絶するという事件が起こっている。土地の略奪や、拘束され沈黙のたたかいを続けている農民たちのケースで訴訟を起こしている人たちもいる。
しかし、最大の問題はこれからである。「ここの地形はビエケスと似ていますから、米軍がビエケスから撤退したら、今度はここに来るんじゃないかと心配です」。これは、プエルトリコの活動家ワンダ・コロンがマンタ基地を訪れたときの発言である。
もうひとつ、マンタ基地から30分しか離れていない所にチョリヨスという町があるが、ここは明らかに被害を受けている。空港のほか、米軍が必要と判断するインフラを建設するため、この町の繁栄のシンボルであり、町を防護しているモンテクリスティの丘はおそらく破壊されるであろう。
この丘は住民の水源であり、人々は水を売って生計を建てている。すべての家庭が、3つか4つの井戸から水を汲んで暮らし、水は井戸のない場所にも運ばれる。マナビ地区の多くは水道施設がなく、マンタ自体もチョリヨスから水を得ているのだ。
もちろん空港建設には石材も必要なことから、この2年間チョリヨスの採石場からは一日24時間石が運び出されている。その結果、地域住民は壊滅的な被害を受けた。家屋が壊れ、子どもたちは病気になり、粉塵で大気が汚染された。これが、他国のプロジェクトのためにチョリヨスが払ってきた犠牲である。
基地建設で1000件以上は雇用が出来るという願いは、あらゆる搾取体制がもたらす悪夢に取って代わった。建設で生まれた雇用はたった300人分で月収はわずか126ドル。いまのところ実現した「アメリカン・ドリーム」はこれぐらいである。
軍はお金を落とすという幻想は、マンタをエクアドルで最も物価が高い町へと変えた。支配層は観光業も提案し議論したが、米軍は観光にふけったりはしない。良くも悪くも、今やマンタは基地の町として知られるようになったが、今後、まさにこの基地のために観光業は不振にあえぐことになるだろう。
これだけでもじゅうぶん不安になる話である。しかし、米軍の活動で最もぞっとするのは、エクアドル漁船を沈没させる姿である。米艦船は、2001年の麻薬取引取締りと移民管理作戦の際、少なくとも8隻の漁船を沈めている。うち3隻はただの漁船であった。
「水兵たちはわれわれに下船を命じ、そのあと大砲で船を沈めた」。これは、ドン・イグナシオの漁民アポリナリオ・サルバティエラの証言である。彼の船は2002年12月2日に沈められた。船が沈んでいく中「アメリカの水兵たちは飛び跳ねて、楽しんで、歓声を上げていた」ことを、同地域の漁民であるフィルフリード・マルケスが確認している。彼らの船は麻薬など積んでいなかった。エスメラルダス漁業会議所の会長レオナルド・ヴェラ・ヴィテリによれば、ガヤイペやティウィンツァといった地域でも同様の事件が起こっている。
マルサ地域でも、サンタマリア号とチャレンジャー号が同じような目に遭っている。サンタマリア号は、2004年3月3日、ガラパゴスのサン・クリストバル島から180マイル離れた海域で拿捕され沈められた。米駆逐艦ロング・ウェイが魚雷を使ったのだ。同様にチャレンジャー号も2月5日、160人の不法移民を輸送している際、米艦船ボーンに拿捕され、「行方不明」と見なされ沈められた。
これら船舶の所有者らは米軍の行為を非難し訴えを起こしている。一例は、カルロス・ロレンテのダイキュー・マル氏が起こした訴えであるが、彼は、エクアドルにおける米軍の不法行為を糾弾し、米南方軍司令部に賠償を求めて裁判を起こした最初の人である。
米海兵隊が侵害しているのは海事法だけではない。マワ大統領が彼らに基地をあたえる根拠となった協定そのものに違反している。基地協定第3条は、「エクアドル領土における作戦および活動は、エクアドル共和国がこれに全面的に責任を負う」と定めている。8隻の船の拿捕、乗船、沈没はエクアドル領海で起きたのである。
2007年:重要な年
この軍事協定は2009年に更新を迎える。更新が承認されれば、マンタではさらに10年軍事活動が続き、同じような破滅的被害が生ずる。
エクアドルの諸団体は、米軍の全ての活動を記録することを決定した。米軍が民族自決権と基本的権利を踏みにじっているだけでなく、米軍活動の範囲を規定する基地協定そのものにさえ違反していることを証明するためだ。
協定は米軍の犯罪に免責をあたえているが、私たちは、協定は米軍活動を制限もしていると考えている。こうした制限が破られて、船が沈められたり、民間人の死亡をめぐる裁判がなされなかったり、基地内に移民管理事務局が設けられたりしているのである。またこの基地には、契約ベースで働く傭兵がいてイラク戦争に派兵されている。
こうして、今日から2009年まで、エクアドルの諸団体は米軍活動告発キャンペーンを強め、記録活動と、基地反対の世論作りを進めていく。今日、1999年の時とは異なり、マンタ基地の存在は人々の愛国心を強めており、軍事主義反対の声は日々高まっている。
2007年はマンタにとって、そして平和と人権の文化を目指す団体にとって特別の年である。
この年、私たちは、軍国主義と軍事基地に反対し、平和の文化を開始するためにたたかうすべての組織を迎えての会議を主催するからである。
最後に、広島と長崎において権力の横暴と向き合ってきた方々が大勢いらっしゃることに触れておきたい。また、1970年代の沖縄返還をめざし、日本国民が大規模な動員と抗議行動をおこなった報告を読み、写真を見たこともある。今日、あの時と同じような力を持って、みなさんの平和を求めるたたかいのリストにマンタも加えてくれるようお願いし、何よりも、マンタ基地の協定更新に反対する運動の最後の一歩を私たちと共に踏み出してくださるようお願いしたい。その一歩を、2007年3月軍事基地反対国際委員会世界大会で踏み出そう。お集まりの方々、そして、すべての民族の尊重と自決に基づく自由な世界を夢見るすべての人を大会に歓迎したい。
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