2004年大会INDEX
2004年日本平和大会in佐世保 国際シンポジウムパネリスト発言


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チョン・マンギュ
(全晩奎)

メヒャンニ米空軍国際爆撃場撤廃住民対策委員会委員長

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 地球村のどこのだれよりも生命と平和共存の願いを胸に刻んでいる長崎県のみなさんとともに、2004年日本平和大会に韓国のメヒャンニ(梅香里)の田舎者を招待してくださり、日本平和大会実行委員会に心からの感謝を申し上げます。今回の大会が地球村の多くの人々に生命と平和の大切な価値を高める、美しき大会となることを願っています。

 メヒャンニの闘争が始まっていつのまにか17年が流れました。あまりにも多くの困難の中で、紆余曲折と公権力による弾圧もありましたが、国内の各界各層の連帯で、大韓民国の大統領もできなかった米軍の陸上爆撃演習場の閉鎖をさせました。また、メヒャンニの沖合いにあるノンソム島の爆撃場も2005年8月に完全閉鎖されるとマスコミで報道されました。

 あわせて民主社会実現のための弁護士の会の代表であるイ・ソクテ弁護士など、立派な法律家の助けで、6年あまりのし烈な法廷攻防のすえに住民代表14人は大法院で騒音被害に対して一部勝訴確定判決をうけ、全体の住民2,350人は2004年12月に最終判決を受け、賠償金(約130億ウォン)が支給されることになりました。

 もちろんメヒャンニ住民の賠償金とともに平和を愛する世界の人々の寄付金をあつめ、閉鎖させた陸上爆撃場の跡地(54万坪)に平和公園と平和博物館を建立するつもりです。

 この間、韓米当局の為政者は国家の安全保障と韓米同盟の相互防衛条約を理由に、われわれ民衆を抑圧し、さまざまの被害と苦痛を与えました。メヒャンニ闘争が、正義と民衆の太い連帯が必ず勝利できるということを証明し、メヒャンニ住民のように抑圧され苦痛を受けている地球村の多くの人々の希望と勇気になることを願っています。

 初めてメヒャンニに射爆場がつくられたのは、朝鮮戦争中の1951年8月、米軍の爆撃機がなんら法的根拠なく、メヒャンニ住民との事前協議や通知もなく、一方的で無差別的にメヒャンニの民家から約700mの距離のクィビソム島(亀のようだといってついた名前)を爆撃投下及び機銃射撃の標的として、射撃演習が始められました。
 その後1954年の韓米相互防衛条約のもと、米軍がメヒャンニ地域に駐屯を開始しました。韓米行政協定発効後の1968年に、ノンソムを中心に半径8,000フィートの区域とこれに接する海岸地域38万坪を徴用し、本格的で実戦的な国際爆撃演習場として設立されました。

 メヒャンニは戦闘爆撃機の爆撃演習場として最適の条件を備えていました。米軍の貪欲さのためにアジアで最良の国際爆撃場にされた理由は、メヒャンニ地域には高い山がなく、丘陵地帯で霧が立ちこめる日がめったにないためです。また、海上の標的と陸上標的が接していて、海上及び地上射爆場の同時運営が可能で、海上で戦闘爆撃機が回転しながら爆撃をするとき、海と空を錯覚する現象を起こすことがあるが、このときまさに接している陸地が標的の目印の役割を果たすのです。それに加え、戦闘爆撃機の計器の故障時には非常着陸ができるようにするために、隣接するオサン(ソンタン)飛行場の滑走路がメヒャンニの方向につくられたというのです。ここでもっとも核心的な要件のうちのひとつは、メヒャンニ爆撃場の周辺に民家があり住民がいて、住民が住んでいるということです。
そして米軍の操縦士の度胸をためし、実戦のような躍動感ある訓練をすることができるということで、韓国内に駐屯している米軍の戦闘爆撃機のみならず、日本、グァム、タイ、沖縄、フィリピン、空母などから数多くの米軍の戦闘爆撃機がメヒャンニへ飛んできて、住宅の屋根の上で昼夜なく戦争の空襲を彷彿させる爆撃演習が行われたのです。
 (午前9時から午後10時まで1日13時間であり、時には午後7時45分から翌朝の明け方4時まで1日200回から400回程度、特殊訓練のときは約700回爆撃演習が行われました。)

 1988年7月、メヒャンニの住民の請願によって、米軍側はクーニ(メヒャンニ)射爆場による騒音被害に対してみずから調査を行いました。米軍は韓国側に送った書簡で「爆撃騒音は住民の日常生活に不便と危険を与えていることがわかった」と報告しました。唯一の合理的な解決は、クーニ射爆場を移転する以外にありません。韓国政府もよく知っているように、クーニ射爆場は重要でした。また、2002年5月、米議会報告書は、アジア及びヨーロッパ、アフリカなど海外駐屯米軍基地による環境汚染などで、NGOと基地周辺の市民による反対運動に直面し、軍事訓練が妨げられ、戦力が落ちていると指摘しています。特に韓国メヒャンニでの抵抗運動は、米空軍の訓練を妨げ、戦力の再調整を余儀なくされています。

 その他にクーニ射爆場に関連した基礎的な事項は次のとおりです。

(1)クーニ射爆場は太平洋米空軍司令部参加の韓国駐屯第7空軍51戦闘飛行団に所属している。

(2)訓練に参加する戦闘爆撃機はA-10、F16、F15、F18、艦載機、B52機、C132(130mm砲)アパッチ、攻撃用ヘリコプター(5種)など12種である。

(3)射撃訓練の種類は12kgの演習弾から900kgの実戦用爆弾とロケット砲、機関砲、レーザー射撃など多様で、年間5、6回にわたって演習用核ミサイル投下訓練が実施される。

(4)射撃訓練は年中つづき、毎週月曜日から金曜日まで年間約250日にわたって行われる。演習は1日平均12時間で編隊(2〜4隊)別に15分ないし30分間隔で行われ、射撃回数は1日200回ないし400回に達し、09:00から22:00まで夏期には07:45から23時まで行われる。

 したがって射撃がない週末にのみ、制限的であっても、射爆場内の農地で農業をしたり海に出て働くことができたが、陸上機銃射爆場の閉鎖されてから、耕作は日の出から日没まで可能になりました。(ただし基地正門で部隊警備員と警察により、出入りを事前に許可された者だけが、身分確認後出入りすることができますが、爆撃場撤去対策委員長を任されている私とその家族は出入り自体が不許可になりました)。


 被害状況

 メヒャンニ爆撃場によって直接的な被害をこうむっている地域はメヒャン1、2、3、4、5リ、ソクチョン3、4リ、イファ1、2、3ニの10の村であり、その住民は800余世帯、3,000余人に達します。〈訳注・リは地方での最小の行政区分。m,n,ngのうしろではニと発音が変わります。〉

 直接被害地域に居住する住民はまず、一年中毎週月曜日から金曜日まで絶え間なくつづく爆撃訓練による激しい騒音被害に無防備でさらされています。同時に、頻発する誤爆事故による生命の危険に対してなんら対策もとられていません。

 経済的損失もまた深刻です。直接被害地域の住民は、射爆場のために、690万坪の沿岸の豊かな漁場と38万坪の農耕地及び林野を安価で徴用されました。これにより、回復することのできない経済的打撃をこうむりました。徴用前までは、海岸地域居住民は、土質がよい丘陵地を耕作し、魚介類の採取と海苔の養殖など、漁業と農業を兼ねた経済活動に生計維持の手段をおいていました。漁業の比重が約90%にいたるほどで、海中の半分が海水で半分が魚と思われるほどゆたかな漁場のほとんどすべてを徴用されましたが、われわれ住民の正業にどれほど大きな打撃になったのかということは、とうてい言葉では表わせないものでした。

 幸い、今は産業の発達でモーターボートがたくさん普及して、爆撃場の統制地域を越えて、遠いところまで船を出して、魚介類を取ることができますが、これには経費がたくさんかかります。


 被害事例

1) 誤爆事故
 ここで爆撃演習がどれほど激しく行われているかは、ノンソムとともに海上標的にされたクビソムだけを見ても明らかです。現在クビソムは実戦用中型爆弾の絶え間ない爆撃で吹き飛ばされ、痕跡(岩)だけが残っている状態です。

 1951年8月、米軍の爆撃演習が始まってから現在まで、誤爆事故と不発弾による爆発事故など、さまざま発生してきましたが、これらに対して、1989年、1995年に小額の賠償金が支払われたのみです。誤爆または不発弾によって死亡した人は12人、負傷者は21人にのぼります。

2) 騒音被害
 直接被害地域とは、陸地射爆場の外側に設置された鉄条網に隣接する住居地域から、射爆場から4km以内の距離に位置している農村及び漁村地域をさします。とくに陸上の機銃標的地から民家との距離は400mに過ぎません。海上のノンソム標的地は民家から1300mの距離です。米軍当局の設定した危険地域(爆弾投下地域)内にメヒャン1、5リの200余世帯と、陸上機銃射撃標的にむかって内陸から海岸方向に急降下する戦闘爆撃機が、村の中央上空を低空飛行で通過しながら機関砲を発射するので、住宅の屋根と壁が激しく揺れるほどの騒音にさらされています(このときの最高騒音度は150db)。こうした戦闘爆撃機のエンジンの爆音、機銃射撃が行われる瞬間には地軸を激しく揺さぶるような轟音によって、家の中にいる人さえも話ができないほどです。また、夜間射撃がある場合には飛行騒音及び砲声と照明弾の光で戦争を彷彿させる状況で、ひどいストレスと安眠妨害に苦しんでいます。

 メヒャンニ近隣のソクチョンニにあるソクチョン初等学校の場合、飛行機の騒音で朝礼の時間に校長先生が訓話の途中で話を中断しなければならず、授業中にも先生が話を中断することが日常茶飯事でした。キョンギド教育庁で教室の窓を二重窓にし、防音装置を施しましたが、エアコン装置がなく、夏には騒音にそのままさらされています。また、メヒャン教会は教会の中に宣教幼児院を設置、運営しましたが、2ヶ月で認可を返上しました。こうした状況は他の地域の人にはどうしても理解できないと言うほかありません。実例として、遊びに来た親戚の子どもたちが驚いて、激しい恐怖で日程を取り消して1日早くメヒャンニを去ったころがあります。爆音に慣れない運転者がハンドルをすべらせたり、住民のデモを鎮圧していた戦闘警察が盾と無線機を取り落とすということもありました。


 メヒャンニ住民の闘争

 1987年、民主化抗争で軍事独裁が崩れて民主化の雰囲気が熟すやいなや、メヒャンニで生まれて代々(11代目)暮らしてきた私が先頭になって、綿密な計画と行動を行いました。村の青年会を糾合して住民の意識を鼓吹し、各村の住民総会を通じて住民対策委員を選出し、1988年6月、周辺の村(10のリ)共同対策委員会(以下、対策委)を構成し、キョンギドと国防部、青瓦台、国会、社会団体、宗教界などに陳情書、請願書と嘆願書を提出するなど活発な活動をくりひろげました。

 メヒャンニ射爆場駐屯米軍司令官のC.W.エンダーソン少佐は、1988年7月「ハンギョレ新聞」とのインタビューで射爆場付近の住民の被害事実を知っていることを認めながら、「しかしここが韓国内にひとつしかない米空軍専用射爆場として米空軍戦力の死活がかかっている」「メヒャンニ射爆場はアジア地域で空軍射撃地としては最適地」だと言い、「被害補償と基地移転問題はどこまでも韓国内の問題」であり「米軍は韓国のお客の立場」だと強調しました。

 これは、米軍自体の警備兵力と警備員が、射撃演習が行われるあいだ聴覚保護のためにヘッドフォンに似た形態の聴覚保護装具を着用し、レーザー砲射撃の場合には閃光から目を守るためにゴーグルを着用するようにしていることとは、とても対照的です。

 これに住民は1988年11月3日、対策委員会の会議を開催し、11月25日までに政府側から根本的な対策の提示がない場合、占拠ろう城などの闘争をくりひろげることを決議し、国防省とキョンギド及び米軍側に通知しました。しかし上記期限までに政府からなんら対策の提示がなかったので、12月12日13:00ごろから18:00ごろのあいだに対策委員会の住民700余人が1,700余人の警察兵力の防御壁と鉄条網を倒し、メヒャンニ陸上射爆場の鉄条網をむしりとって基地内に進入しました。爆撃目標を体でふさぎ、わが国では初めて民間人が米軍基地を占拠ろう城しました。私たちは、生存権の保障を要求し、整然とみずからすすんで解散しました。

 その後も政府当局が誠意ある態度を見せないので、住民は1989年3月6日、第2次射爆場の占拠ろう城をくりひろげました。ここに当局は警察9個中隊を投入し、棍棒と鉄パイプで無慈悲にもデモを強制解散させました。その過程で住民3人が負傷しました。ひきつづく警察の暴力鎮圧に対策委員長の私は、包丁を持ち上げながら、自衛手段として住民にツルハシと鎌を持って対抗するよう指示しました。命をかけたデモで爆撃演習が中止され、ファソン警察署長とファソン郡守がなんども更迭されました。警察は私をはじめと対策委員12人を、明け方、寝ていた部屋の中まで軍靴で進入し不法連行しましたが、若き中学生までが火炎瓶を持って参加し、住民の組織的抗議闘争で48時間後に私たちはすべて釈放されました。その後、住民は3月18日、ふたたびノンソムを占拠して爆撃目標に油を注いで万歳を叫びデモを行いました。その時は、M16小銃で完全武装した韓国軍1個大隊の兵力まで投入してデモを鎮圧し、3月21日には地域選出の国会議員(民正党・パク・チウォン)が国防省長官及び国会国防委員長との面談を斡旋してくれるという答弁を聞き終えたのち、デモを自制することを約束しました。

 しかし米軍当局は射爆場施設を維持するために、3月22日から住民の射爆場への出入りを一切禁止し、春季の営農作業を不可能にし、住民対策委員会は追い込まれました。4月28日には国防省を訪問し、国防省次官など関係者から射爆場請願対策に対する政府当局側の説明を聞きましたが、根本的な解決策の答弁は得られませんでした。結局、住民対策委員会は春季の営農を可能にするため、デモの自制を条件に基地内の耕作のための射爆場への出入りの許可を取り、帰ってきました。

 以後、住民がデモを自制して春季の農作業に没頭していたさなか、89年5月、米軍側が射爆場内に私が所有している田と苗床に、米軍トラック4台分の石と土砂が注がれるという事件が起こりました。これはだれが見ても、住民デモを主導したことに対する「故意の報復行為」であることに間違いありませんでした。知らせを聞いた住民が米軍基地に駆け込んで、責任者の謝罪と原状回復を要求し、抗議する過程で、米軍は野球のバットと軍のボートの櫓で住民を無差別殴打する蛮行を犯しました。これに憤怒した住民は当日21:00ごろからメヒャンニ射爆場基地正門の鉄門を壊して進入し、緊急出動したファソン警察署ウヂョン派出所長と米軍軍属などを殴打し、基地内レーダ施設及び各種電子装置と計器はもちろん、23台の車両を破壊しました。

 この事件に対して当時の駐韓米軍司令部H.リンク(大佐)の代弁者は、米軍が住民の農作業を妨害した事実と、野球のバットで暴行し銃器で住民を脅かした事実を否認し、住民が米軍射爆場内に無断侵入し、窃盗、略奪と破壊行為を行ったと主張しました。また、私の田を石と土砂で埋没させたのは、駐車場を確保するためであったと、話にもならない理由で強弁しました。(ハンギョレ新聞)1989.6.10

 この事件のために、私と副委員長ペク・トンヒョン氏が軍事施設保護法違反、建造物侵入、器物損壊、特殊公務執行妨害、傷害などで逮捕され、その他50余人に達する地域住民は逮捕はされなかったが、起訴されました。事件の発端の責任は、明らかに米軍にあるにもかかわらず、米軍側に公式的な謝罪を要求できなくとも、彼らを無条件で見逃しておいて被害住民だけ犯罪人として刑事処罰したのは、果たしてだれのための政府なのかと思わせる出来事でした。私とペク・トンヒョン氏は1審で懲役1年6ヶ月の実刑を宣告されたのち、控訴審で8ヶ月ぶりに執行猶予で釈放されました。しかしその影響は大きいものでした。数ヶ月間命がけの爆撃場占拠ろう城とデモを行っても、射爆場移転という目標を達成することができず、住民代表がたくさん刑事処罰を受けるなど、傷だけを残したまま幕を下ろしたのである。これによって住民はながいあいだひどい憤怒と挫折を味わわなければなりませんでした。

 結局、住民対策委員会は闘争のひとつの手段として住民代表15人を選び、98年2月、1人あたり1,000万ウォンずつの騒音公害などに関する精神的損害賠償(慰謝料)の一部を請求する訴訟を提起した。 
 6年間のし烈な法廷のたたかいのすえ、韓国司法部の最高機関である大法院でわが住民が勝利しました。いくら国防と安全保障のためとはいえ、超大国、米国のための訓練場も、住民の生存権を脅かして環境権を侵害したならば、当然賠償しなければならないという判決は、われわれ住民にはもちろん、権力の利己主義と安全保障という名で権利を侵害され苦痛を受けて生きる多くの民衆に、大きな希望と勇気となるだろうと確信しています。