ロナルド・マッコイ
「マレーシア反核医師の会」会長(「国際反核医師の会」共同議長)
日本の米軍基地:問題と解決
はじめに
21世紀が始まろうとしているとき、日本は深刻な経済課題と政治の不安定化に直面している。経済を再構築し、国内の政治改革にとりくむという課題に直面し、日本の外交政策もまた、綿密な検討に付されている。これらの懸念の中には、中国の成長する経済・軍事力、核保有国としてのインド、パキスタンの出現、朝鮮半島のひきつづく不安定、そして、日米軍事同盟の変わりつつある本質などがある。アジアにおける日本の侵略の記憶を忘れるのは困難であるが、日本と世界中の国が、困難であるかもしれないが、融和と協力の精神で、過去の亡霊を追い払うことが必要である。
日米軍事同盟
憲法9条で戦争を放棄し、日本は紛争と戦争をしがちな世界の役割モデルになることができたはずだ。しかし、アメリカと日本の安全保障協定は、1951年の最初の日米安保条約以来、定期的に改定され、アメリカに軍事基地を提供し、アメリカとの共同軍事作戦により緊密にかかわり、日本の貢献を増大させてきた。
1996年の日米防衛協力の指針の改定は、日本に対し、朝鮮半島や台湾も含む「日本の周辺」のアメリカの軍事作戦を支援する約束をさせた。その約束が兵站支援に制限されているとしても、専門的には9条の違反となり、中国、北朝鮮と日本の関係に不幸な影響を招くものだ。日本の約束は、アフガニスタンに対する現在の戦争で、日本の艦船がアメリカ軍に非戦闘支援を行なうために配備されたとき、さらに拡大された。
冷戦が終わってから、アメリカは唯一の超大国になり、世界の覇権となった。アメリカの太平洋での軍事プレゼンスは、この地域での自国の利益を守り、復活した中国の認識される脅威に対応するためである。言いかえれば、日米軍事同盟は、日本に、自国の利益というよりアメリカの利益に奉仕するいかなるアメリカの軍事行動にも参加するという約束をさせたのである。
さらに、日本の安全保障のためのアメリカの核の傘は、アメリカのミサイル戦争、先制使用のドクトリンの不合理性を考えれば、中国との核対決の際に、数百万人のアジア人の命を危険にさらすというねらいを意味している。
アメリカの9月11日のテロ攻撃とテロ反対の戦争は、日米軍事同盟に別の特質を加えた。それは、アメリカによってテロの容疑をかけられたアジアの国に対する、いかなる軍事介入や威圧に対し日本が関与するようになるということだ。
沖縄の米軍基地
1995年9月、米兵3人による沖縄の12歳の少女暴行事件が起こって以来、国民の強い抗議が起こり、在日米軍基地に対する日本の政策の変更を迫るキャンペーンを燃え上がらせた。当時の沖縄県の太田昌秀知事は、政治家と労働運動の支持を得て、キャンペーンを開始し、日本政府に沖縄の米軍基地のひき続く駐留について交渉を行なわせた。しかし、1997年までに、キャンペーンは、代替地を見つけるのが困難なことと、県民のための予算と雇用機会を減らすという形の中央政府からの圧力の結果、衰退した。結果的に、太田知事は人気を維持することができず、98年には再選されなかった。人権と環境への懸念に基づく、彼のキャンペーンは、失業という経済的現実の中で生き残ることができなかった。
日本の歴代保守政府がアメリカ政府との安全保障関係を過大評価し、アメリカの戦略的利益を危険にさらすいかなる政策も避けてきたということは明白である。たぶん、最も露骨なものが、1945年に2発の原爆によって破壊された唯一の国である、日本の二面的な核政策である。
脱同盟
冷戦の終結から10年、国際社会は依然として、非軍事的な言葉で安全保障を再定義し、軍縮を拡大し、核戦争の脅威をなくす定式を探っている。
軍隊と抑止による力のバランスという伝統的な考え方は、信頼醸成、協力、紛争の平和的解決に道を譲らねばならない。これは、伝統的な思考と世界の安全保障の組織原則において、主要な変化を予見するものだ。
脱同盟は、日本も含め、あらゆる国の安全保障のジレンマから脱出できるプロセスである。経済、政治の問題への代替的アプローチを求め、新しい政治的思考と解決策の居場所をつくるように、正常に機能していない世界システムを政治的に変えていく道である。
脱同盟は、多様性と同時に、分極と紛争を減らすことをめざしている。国際関係における軍事化は、縮小されるべきであり、経済、社会の変化が戦争にならないように、国際的な意見の不一致を管理する新しい民主的な非暴力の方法が取って代わるべきである。
脱同盟とは、非同盟と中立とは異なる。それは、ブロックを超えた、むしろブロックの間というような、積極的な政策である。軍事同盟のコンセンサスに反対し、軍事同盟の内容をやめ変更し、やがては軍事的非関与に導くという意思を示唆している。
日本にとって脱同盟とは、より自主的な安全保障政策を意味する。その中では、民族主権や国民に対する政府の責任が強調される。たとえば、日米軍事同盟のコンセンサスがアメリカの核政策によって象徴されるなら、核軍縮のための戦略は、脱同盟の戦略ということになる。
脱同盟の第一の特徴は、非核化である。先制使用をしない、不拡散、外国の領土からのすべての核兵器の撤去、非核地帯の設置などである。これは、脱同盟のプロセスにおいて主要な要素であり、力は核兵器によって支えられるという概念を放棄することになる。
私たちが生存している世界では、不信が国際関係の主要な特徴の一つである。現実主義者は、国家の共存は、おもに条約や国際法を通してうまく行なえるというのは本当ではない、というのも、協定はしばしば破られ、戦争が生じ、それは今後も続くからだと主張している。しかし、これは条約が履行される環境に大幅に左右される。
さらに、非核化は、通常兵器の補填的増強を伴うやり方で行なわれてはならない。それゆえに、脱同盟の第二の特徴には、非軍事化が含まれる。目的は、軍事的非関与である。すなわち、外国軍の撤退、軍事力の削減、同盟の司令機構の段階的解体である。
脱同盟は、非核、非挑発的防衛政策であり、核兵器、ミサイル、破壊力の強い強度のある攻撃用通常兵器を拒否する。目的は、自国領土の有効な防衛を維持しながら、相手の領土を攻撃するということを、実際に不可能にすることだ。
脱同盟の第三の特徴は、脱分極である。これは、二極性の影響を少なくし、威圧的な国際関係を緩和し、協力を高め、東と西の経済的、社会的格差を縮めることである。
脱同盟の第四の特徴は、民主化であり、脱分極から発展しているものだ。民主化とは、安全保障政策に対する国民の管理を含み、それは、安全保障問題において国家の管理範囲を減らし、紛争と戦争は、人間の行動がおこす典型的な状況であるとの考え方を退けることになる。
委任された権力が集まっている所として、国家は過剰に自治権を持つようになっている。特に、安全保障の分野でそうである。というのも、安全保障の問題をめぐる判断は、秘密の専門的な情報に左右され、その情報は国民から隠され、民主的な市民参加にはほとんど余地がないという前提によって、この分野が維持されているからだ。より広範に認識されねばならないことは、国民の議論、開かれた政府、国民の責任が、脱分極と非核の世界にとって必要条件であるということだ。国家間の不公平な威嚇的な関係が、新しい形態の民主的、包括的関係に取って代わられるならば、責任能力のある、注意を怠らない、政治的に有効な市民社会による監督が行なわれねばならない。
最後に、米軍基地撤去と名護の新基地建設反対をかかげてたたかっている沖縄県民の運動に連帯を表明する。