2000年大会INDEX

2000年日本平和大会in沖縄国際シンポジウム パネリスト発言

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フランチェスコ・イアヌツェッリ


ピースリンク協会(イタリア)

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日本平和大会−沖縄への報告
「軍港における核の危険」



原子力潜水艦


 これまでに蓄積されてきた核兵器の膨大な破壊力は依然として人類に脅威を与え続けているが、艦船の推進力としての原子力利用の背後に隠れた危険は比較的知られておらず考慮もされていないと思われる。核兵器とくらべて直接の危険度が少ないことは明らかとしても、原子力潜水艦が常時パトロール中であることや、安全措置が欠落していることは、環境と人類にとって本当に危険といわざるを得ない。
 冷戦期間中、原子力潜水艦はどんどん製造され、弾道潜水艦(核弾頭装備の潜水艦)や攻撃型潜水艦(通常ミサイル兵器装備)が建造された。この両者とも建造に当たっては推進力として1基ないし2基の原子炉が装備されていた。
 このために、世界中の海洋に原子力潜水艦が常時出現することになり、その結果、事故や衝突、軍事行動参加の大きな危険が生まれている。今日この状態にはほとんど何の変化も起こってはいない。原潜の存在も、その警戒態勢も従来と同じである。ただロシアの原潜だけが財政的理由で相当数削減されただけである。
船の推進力としての原子力の利用は(少数のロシアの氷砕船を除くと)軍事を目的とする海軍のみが選んだ選択であった。民間の船舶にとって原子炉は費用もかかりすぎ危険度も高すぎるが、こうした2点が軍事目的の場合にはいかに無視されるかをわれわれは知っている。軍事の場合、資金が不足することはなく、安全問題よりも他の利益が優先するからである。
推進力としての原子力利用の主な理由は、これまで以上の航行距離の長さと潜水時間の長さが可能な点にある。原子力潜水艦がスパイ目的で使われたように、このことは冷戦の時期にはとても重要な要素であった。


安全問題と軍事的利害

 原子炉にはその安全性を高めるための建造上の工夫や操作上の工夫も数多くなされてはいる。しかし、原潜には緊急装置を取り付けることが不可能であり、これが欠如しているために、原潜の原子炉には常に途方もない危険が存在することについては専門家が一致して認めている。このように、地上では操業する許可を決して得られないような原子炉が水中では自由に動きまわっている。
 原潜の製造および配備においても、軍事上の必要性を優先させ、戦略的利害のために艦の緊急の即応体制が求められることについても考える必要がある。安全性テストやメンテナンス作業がまだ完了していないのに原潜が軍事的任務を帯びて派遣されるのはその典型例である。
 いくつかの報告から明らかとなったように、ロシアの原潜は義務付けられていた点検も受けずに配備され、このことが多くの事故を生んでいる。実際、ロシア艦隊の状況については多くの懸念があるが、この話は予算問題がまだ存在しなかった頃の過去についての話なのである。
 この愕然とするような状況はロシアの原潜にのみ当てはまり、NATO(北大西洋条約機構)軍の原潜には当てはまらない、といいきれるであろうか。西側の海軍司令官は安全問題により注意を払っているだろうか。
 12隻のイギリスの原潜に存在する欠陥は数年前から非難されてきたところだが、国防大臣がようやくこれを認めたのは英国軍艦タイアレス号に重大な事故が起こってからのことであった。それでいてなお、これら原潜の中の何隻かは点検も受けずに間もなくまた操行を再開するというのだ。これは明らかな一例である。
 西側の軍隊は環境や、戦争によって生みだされる被害に配慮しているだろうか。コソボにおける劣化ウランを使った最近のNATO軍による爆撃は、もう一つの明白な実例である。それ故に、ロシアで暴露された状況は軍隊の存在するあらゆるところに存在すると言い切ることができる。いかなる国においても、軍事上の戦略と軍事上の利害は、国民や環境の安全に優先するからである。


おびただしい数の事故

 核エネルギーを生み出す核連鎖反応は、主として原子炉の活動を調整するための制御棒と、熱を除去して電力を生み出すための冷却装置など、幾つかの方法によって制御される。
 もし、そのどれかが破損した場合には連鎖反応は制御できなくなり、炉心溶融や原子炉の爆発といったような惨事を引き起こす。
 冷却装置の中では水が非常な高温・高圧で巡回しており、万一水漏れがおこると原子炉の危険な過熱状態が起こるため、冷却装置には特別の注意が必要とされる。
 商業用原子炉と違って、原潜の原子炉の場合には冷却装置に問題が生じた場合、ECCS(非常用炉心冷却装置)と呼ばれる緊急システムがまったく存在しない。LOCA(冷却剤喪失事故)と呼ばれるこの種の事故の発生率をイギリス海軍は一万原子炉年につき1回と試算していた。
 この5月、イギリスの原子力潜水艦タイアレス号は地中海のシシリア島近くをパトロール中にこの種の事故を発見したためにやむなく原子炉の運転を停止し、直ちにジブラルタルに向けて引き返し、そこで修理のために現在停泊中である。いくつかの情報源によると、タイアレス号は海中に放射能を帯びた水を放出し、原子炉は炉心溶融寸前であったとのことである。タイアレス号(「疲弊しない」の意)ではなくてラックレス号(「運のない」の意)と呼ぶ方がふさわしいのではないだろうか。しかし、これは単に運の問題といえるだろうか。
 潜水艦における核事故の実際の危険はどこでも過小評価されている。すでにわかっている事故を列挙するだけでも我々はここで夜までかかることであろう。最近6隻の潜水艦がいろいろな事故が原因で沈没したが、その中には核兵器を搭載した潜水艦もあったのである。軍スポークスマンは、原子炉は沈没前に停止されていたと述べた。この原潜は水深約500メートルの水圧に耐えられるように設計はされていたが、もっと深くまで沈んで水圧のため船体や原子炉の格納容器がばらばらになり核燃料が水中に広がる場合を考えてみる必要がある。
 修理のしようがないために意図的に沈められた原潜もあったが、多くの原子炉は(内部に核燃料が入ったままで)海中に投棄された。地上で保管するには費用がかかり過ぎるからである。
 こうした信じ難いような事故のほかにも、多くの事故によって放射能が地球環境に放出されている。


イタリアの事例

 イタリアは有名なベニスやナポリを含む12の港の使用許可をNATOとアメリカに与えている。それの全てが軍港であると同時に民間用の港でもあり、しかも人口密集地帯に近い。アメリカにある原子力潜水艦基地は軍事用に限られていてしかも人口の過疎な地帯にある点を指摘したい。
 数十年前から地中海には戦艦が常に常駐しており、およそ3ないし7隻の原潜がこの地域を巡回している。
 サルディニアに近いマダレーナ基地では、アメリカ海軍は補給整備艦、つまり燃料補給を含めて原潜への各種の整備作業を行える艦船を常時配備してきた。どこのイタリアの港でも事故の場合の緊急計画が法によって規定されている。この法によると、住民が何をすべきかを知り自分たちの健康を守るために如何に行動すべきかがわかるように、この計画を住民に知らせることが義務づけられている。しかしこの緊急計画は機密扱いとなっていることを理由に開示されていないのである。
 これは明らかに矛盾であり、イタリアにおいて我々が類似の事例を経験するのはこれが初めてではない。つまり、住民の健康にかかわる情報が機密を理由に公表されないのである。まったく馬鹿げたことだ。ピースリンク協会は、数ヶ月にわたって法に基づく要請を行い圧力をかけた末に、この緊急計画のうち数ページを入手することができ、インターネット上で公表したが、万一の事故に対処するにはこの計画がまったく不十分であることが明らかとなった。


汚染の測定

 事故とは別に、原子力潜水艦はそれ自体で放射性核種を拡散する。それ故、原子力潜水艦の通過が環境をどれほど破壊するかをチェックするために海中や沿岸の放射能汚染を測定することが基本となる。
 不幸にして、こうしたデータは不十分な上、きちんと収集されることはめったにない。その上、科学者の中には、人体への実際の被害がいかにさまざまな要因に起因するものかを指摘し、水や砂の中の放射性核種の存在を測定するだけでは汚染量を測定することはできないとする者もいる。複雑な生態系の中では、放射能汚染に関する十分な情報を表すことのできる唯一の測定法はムラサキイガイ、軟体動物、魚、それにラットのような生物指標である。
 先に述べたように、より正確な測定方法で港付近で実施した分析はまったくおこなわれていない。原潜や核搭載戦艦の存在の実際の影響を住民に意識させないために、住民を安心させるという政治的、軍事的思惑があることは明白である。
 こうした諸々の困難にも拘わらず、我々が収集したデータは原子力潜水艦が寄港した港における放射能汚染のはっきりした証拠を示している。


国際的協同の必要性

 この問題に立ち向かうためには、われわれは放射能汚染の影響に関する我々の知識とデータを、原潜が寄港する他の国や都市と共有し、環境に対する被害の実態をはっきりと示すことが必要である。
 海外米軍基地の存在は、さまざまな面で、その国の住民にとって現実の危険をもたらしている。原子力潜水艦や核兵器積載艦船の寄港を禁じた最初の港である神戸の重要な先例を、あらゆる町で実現することが我々の目標である。
 いっぽう、全てのことが相互に関連しているため、他国籍企業の横暴や軍事的・経済的利害に対抗し、領土の進歩的非軍事化、情報や科学活動の自由を実現することなしには、われわれの国の海や港の非核化を目指すことはできない。
 変化は可能である。しかしそれはあらゆる分野における共同の努力を通して初めて実現できる。