2010年大会INDEX

2010年日本平和大会in佐世保 国際シンポジウム パネリスト発言

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小沢 隆一


軍事同盟のないアジア・太平洋をどう展望するか
−「駐留米軍=抑止力」論を超えて−


はじめに

 私の発言は、「駐留米軍=抑止力」論を批判的に検討するものである。この議論は、いま、沖縄の普天間基地の撤去や安保条約の廃棄を目指す上で、大きな障害となって、私たちの前に立ちふさがっている。この議論の批判は、「軍事同盟のないアジア・太平洋」を展望する上で欠かすことのできないものであろう。
 沖縄の海兵隊が、その任務において「防衛」的部隊ではなく、上陸作戦などにより敵地に乗り込む外征軍の一部、いわゆる「殴り込み部隊」であることは疑いもない。この部隊は、固有の意味での「日本の防衛」に直接投入されることはあまり想定されていない。しかし、そのことを理由にして、「日本の平和を守る抑止力ではない」と論じても、すぐに、「そのような海兵隊を含む米軍の投入能力の高さ、それゆえの強さが他国からの武力攻撃を抑止するのだ」という反論がかえってこよう。「日本の平和」だけを問題にしていたのでは、批判したことにならない。
 北朝鮮による核実験やミサイル開発、さらには11月23日に起こった韓国への砲撃、中国による尖閣諸島に対する領有権の主張の強まりを前にすると、日本国民のなかには、「攻められるのは私たち」という思いが自ずと湧いてきて、あるいはマスコミの報道によってかき立てられる。そして、現に米軍が日本に駐留していることと、実際に日本周辺で武力衝突が発生していないという二つの事実が単純に結合されて「抑止力」論を勢いづかせる。武力衝突が起きていないことは、本来、それ以外のさまざまな要因によって帰結しているはずなのに、そのことは無視される。「抑止力」論は、その批判の方法をよく検討して、練り上げる必要がありそうだ。


1.「抑止力」論とはどういうものか

 「抑止力」論を克服するためにまず必要なことは、それはどういう議論かをしっかりと把握することである。それは、「抑止力」論がなぜ人々に広く受け入れられてしまうのかを理解することでもある。こうして「抑止力」論の特質を理解することで、それを克服する上での「固有の障害」が確認できると同時に、意外なところに克服のカギがあることも見えてくるのだと思う。それでは、「抑止力」論の特徴とは何か。
 とりあえず、ここでは、「抑止力」の定義については、「侵略を行えば耐え難い損害を被ることを明白に認識させることとなって、わが国に対する侵略を思いとどまらせることになる」という『平成22年版防衛白書』の定義に従っておくが、ただし、この定義は、いわゆる「懲罰的抑止」と「拒否的抑止」という通例よくなされる分類のうち、前者に偏った定義であることには留意が必要である。定義がこのように偏るのは、日本での抑止力の議論が、主として、アメリカの「核の傘」や日米安保体制、在日米軍の駐留を過度に強調していることによる。それはともかく、「抑止力」論の一般的な特徴を考えてみる。
 第一に、この論は、「侵略がない」すなわち「武力紛争が現に起こっていない」という「事実」を自らの強い論拠として利用できる。そうした「事実」は、軍事力以外にも、平和を希求して紛争を回避しようという国内外の市民や政治勢力の声や、それに影響を受けた政府の意向や方針(そこには政権担当勢力の政権維持への野心なども含まれるだろう)によっても影響されているはずである。議会制民主主義の国ならもちろんのこと、仮に軍事独裁政権であったとしても、政権転覆の危険をあえて犯してまで無闇な武力行使に出ることは、あまりない。
 「憲法9条こそ最大の抑止力」という言い方も、その根拠を丹念に積み上げていかなければならないが、憲法9条の存在とそれを支持する日本国民の世論が強固であり、9条の明文改憲が容易ではないことが、日本の(自衛隊による)他国に対する軍事侵攻の可能性を大きな歯止めとなり、そのことが日本を脅威とする他国の認識を強く押し下げている。ところが、「抑止力」論は、そうした軍事力以外のさまざまな要因の存在やそれによって軍事力自体に歯止めがかかっていることなどを無視しがちである。それらを理論のうちに取り込むには、あまりにも単純すぎて容量が狭い。ようするに、「抑止力」論は、確かめようのないことを言っているにすぎない。
 第二に、「武力攻撃がない」という状況のなかで、武力攻撃の「おそれ」を生じさせたり、その増大を予感させるような他国の動向は、それがどんなに些細な動きでも、容易に自らの根拠にできるのが、「抑止力」論の特徴であり、それは「強み」でもある。「抑止力」論は、そうした動きがどのような背景やねらいをもっているか、そうした動きに対して「抑止力」と目されている軍事力の行使は有効・適切な対処手段か、などを問うことがない。それを問うと、むしろ武力攻撃の「おそれ」が解消したり、「抑止力」の意義が低減したりすることがある。その探求をしないまま「抑止力」を強調するのは、議論を、本来の意味での「抑止力」から、国民の漠然とした「心理的不安」への対応という方向にずらすこと、すなわち「問題のすり替え」という性格が強い。
 このように現在の「抑止力」論には、軍事的合理性に基づいて組み立てられているもの以外に、自国や他国の政府や国民に対する「政治的・心理的な役割」を期待して立てられるものも「混在」しているのである。これは、第一で指摘した「抑止力」の「確かめようのなさ」からくる、問題の必然的な拡散といえるだろう。「抑止力」論は、軍事力の有効性を問題にしているようでいて、実は、軍事力のもつ「政治的・心理的意味」を必然的に引き入れてしまう議論なのである。しかし、「政治的・心理的な役割」であれば、軍備だけではなく、政府の政治・外交方針や、経済的な取引や交流の関係、国民の世論動向なども同様に、場合によっては軍備以上に力を発揮するといえるだろう。「抑止力」論は、結局、一方で、軍事力の「政治的・心理的な役割」について論じながら、他方で、軍事力以外のもののこうした「役割」については目をつむる、まことに手前勝手に都合よく組み立てられた議論といえる。
 第三に、「抑止力」論には、理論の失敗、破綻を心配することなく安易にとなえることができる、すなわち「失敗のリスクの少ない議論」という特徴がある。
 抑止に失敗して、武力攻撃が発生した場合を想定してみよう。その原因の中には、武力衝突の発生現場での偶発事態や判断ミス、外交交渉や政府の政策決定における失敗、議会での議論や国内外の世論動向等々、それこそありとあらゆる要因が関わっているはずであるが、それらの「原因」や「真相」の追及や検証にはかなりの時間がかかり、追及や検証には時々の「政治的配慮」が免れがたいので(アメリカやイギリスでのイラク戦争の「検証」をみればよくわかる)、その面からの総括は曖昧な結論になりがちである。すなわち、こうした検証は「難しい」のに対して、軍事の面からは、「抑止のための武力が不足していた」と、大した裏付けもなしに結論づけることは比較的容易である。逆に、抑止に失敗した後に、軍事力の有効性に疑問を投げかけたり、その削減を主張したりすることは、かなりの明確な論拠を求められるにちがいない。
 このように、「抑止力」論は、理論としての「失敗のリスク」の少ない議論なのである。今日の日本の論壇では、普天間基地の沖縄県内での移設を強引に押し進めようとする政府の方針が「難局」を迎えるたびに、日米安保体制と米軍の日本駐留を擁護し正当化する理論家やマスコミの論調があふれかえり、「日米安保体制の危機」や「駐留米軍は抑止力」などと騒ぎ立てるが、こうした議論は、「抑止力」論のもつ「失敗のリスクの少なさ」という特徴に知ってか知らずか寄りかかっているように思われる。


2.リアリティを失いつつある「抑止力」論


 さて、以上のように、「抑止力」論は、なかなか手強い議論である。それでは、それを克服するのは、重く困難な課題なのか。そう悲観するべきではあるまい。以上のような「抑止力」論の「「手強さ」は、同時にその「弱さ」でもある。
 第一に指摘したいことは、「抑止力」論のリアリティの減退である。最近の「抑止力」論は、すでに述べたように「国民への安心感の提供」などへも広がって理論が拡散してしまっているが、もともとは、軍事戦略としてそれなりの明確性をもって登場したものである。「抑止力」論は、自らは先制攻撃をしない、すなわち侵略はつねに相手方がしてくるという想定で組み立てられている。この「想定」は重要である。戦争や武力行使が違法とされず、相手国の侵略の企図を阻止するための先制攻撃も合法とされていた時代にはなかった「想定」だからである。「抑止力」論は、国連憲章による「武力行使の違法化」を前提にしてのみ、国際社会の表舞台に現れえた概念である。こうした国連憲章という法制度的枠組みと、米ソが核兵器の開発と増強、蓄積を熾烈に競った結果、「相互確証破壊(MAD)」態勢が成立して、「恐怖の均衡」によって核兵器の使用が控えられる状態が続くという現実とによって、「抑止力」論は、国際政治上、軍事上の重要概念としての位置を占めるに至った。このように「抑止力」論は、国連憲章という国際法と「米ソ冷戦」という国際政治との双方に依拠して生まれた。
 今日の国際社会を見ると、「抑止力」論を支えてきたこうした基盤が大きく動揺し、変化してきている。「米ソ冷戦」状況の解消は、縷々述べるまでもないだろう。最近では、「国際テロ組織のような非国家主体」については、「抑止が有効に機能しにくい」とか、「犯罪として対処する方が抑止効果は高い」と、しばしば指摘される。「抑止力」概念は、それが生まれた「米ソ冷戦」時代とは異なり、今日では、言葉としては維持されてはいるものの、意味が拡散して変化している。
 「抑止力」論のリアリティの減退を促しているのは、「ソ連東欧圏」の崩壊による「米ソ冷戦」の終結だけではない。2001年のアメリカのアフガニスタン攻撃や、2003年のアメリカとイギリスのイラク攻撃が、先制的な武力行使を違法とする国連憲章や「復仇」的な武力行使を禁止した1970年の国連総会での「友好関係原則宣言」を踏みにじることで、国連の集団的安全保障体制を著しく傷つけてきたこともまた、「抑止力」論が依って立つ基盤を掘り崩しているといえよう。「抑止力」構想によって相手の侵略を阻止しておきながら、自らは先制攻撃を行う意思と能力を決して放棄しないというやり方は、国際社会でとうてい正当化されるものではない。ところが、アメリカは、そうしたやり方を実践してきた。最近では、宇宙でのミサイル防衛態勢の構築やハイテク兵器を駆使した「無人攻撃」を軸とする戦術など、自らの攻撃能力を「抑止」から解放することの追求に余念がない。そうしたアメリカには、「抑止力」論を唱える資格はない。
 このように、現在の国際社会の実態を踏まえたとき、「抑止力」論は、それを生み出した「米ソ冷戦という現実」という事実的基盤は今や過去のものとなったと同時に、先制的な武力行使を禁ずる国連憲章もイラク戦争などによって大きく傷つけられるという事態によって、その正当性の基盤も揺らいでいる。こうした状況を克服して、国連の集団的安全保障体制の再構築をはかることが重要である。そうだとするならば、それは、もはや「抑止力」論と決別すること抜きには困難である。今日、人類は、「核抑止力」論を克服して核廃絶への道筋をどうつけるかが問われているのと同様に、通常兵力一般を念頭に置いた「抑止力」論もまた、克服していくべき岐路にさしかかっているといえよう。


3.実は「攻撃的」な「抑止力」論

  「抑止力」論が克服されるべきなのは、それが「冷戦」時代の遺物として「時代遅れ」であるとか、「先制攻撃」も辞さないアメリカの軍事戦略にそぐわないということだけがその理由ではない。「抑止力」論に今でも固執し続けることそれ自体が有害であることこそが、より重要な理由である。
 それは、論理構成として「防衛的」な前提から出発しながら、本質的には「攻撃的」な議論であるという点に求められると思う。それは、「懲罰的抑止」の観念や、相手国に「耐え難い損害を被ることを明白に認識させる」という表現からうかがわれるように、そして何よりも、「核兵器による破滅的破壊の恐怖」を出自としていることからも、もっぱら「防衛的」な性質の議論とはいえない。「拒否的抑止」の場合でも、戦闘の局面しだいでは、敵基地に対する予防的攻撃さえも織り込む議論である。
「抑止力」論は、軍事力の抑止効果を追求する結果、議論の出発点における「防衛的」性格を「裏切る」議論である。それは、軍事力による「威嚇」の中に潜む「攻撃的」な本性を併せ持つことを特質とする議論なのである。これは、「核抑止力」論が、民間人も含む無差別の大量殺戮をともなう報復攻撃の恐怖を相手に生じさせることによって、すなわち侵略戦争に明け暮れた20世紀の大量破壊の「記憶」を、反省と克服の対象ではなく、それを再現させうることを恫喝の手段として利用するという意味において、決して「防衛的」な戦略とはいいがたいのと同じである。
 今、私たちに求められているのが、「戦争の時代としての20世紀」の克服であるならば、20世紀の戦争の記憶は、「核抑止力」論とは違う形で、すなわち平和を創造する方向と方法で想起されなければならない。「抑止力」論一般も、現代の平和創造を妨げるべきものとして、克服されなければならないのである。
  「軍事同盟のないアジアと太平洋」は、そうした努力の積み重ねの上に、築かれるものであろう。私も、そのために、ささやかながら力を尽くしたい。