2009年日本平和大会in神奈川 国際シンポジウム・パネリスト発言
ハネロア・トゥルケ(ドイツ)
ドイツ平和評議会 ボン市議会議員
NATO−危険な安全保障体制
二極対立が終わってからこれまでの20年間で、NATOはその戦略も活動域も変えました。わたしはこの変化についてお話しし、21世紀における欧州の安全を保証し、欧州にとっての一つの選択肢となり得る安全保障概念についてお話しします。
2009年4月に開催されたNATOサミットは、21世紀におけるNATOの新しい長期戦略のための新戦略概念を検討することを決めました。この新戦略概念は、2010年にポルトガルで開催される次回NATOサミットで決定されることになっています。
NATO新戦略概念の一つの重要なポイントは、いわゆる包括的アプローチなるもので、これは安定化配備といわれるものに民間人や国際援助組織が関与することを意味しています。この軍民協力(CIMIC)では軍人と民間人が手を携えて活動することになり、民間人がNATOの兵力展開の一部に組み込まれるのです。
対アフガン戦略としてはアフガンへの増派が予定されています。今週の発表ではアフガニスタンには10万人の兵士が派遣されることになっています。
NATOの新戦略概念のもう一つのポイントは、意思伝達構造と決定方式の変更です。現行のコンセンサスの決定方式をやめ、NATOの戦争に参加していない加盟国も決定に参加しますが、配備費は戦争に参加していない国も含め全加盟国が負担します。専門家たちはこれによって力関係が完全に変わってしまうと考えています。これは大国を有利にし、NATOの戦争能力を著しく強化することになるでしょう。
NATOは公式には否定していますが、NATOはロシアと対立しています。NATO、特にアメリカがグルジアとウクライナをNATOに加盟させたいと思っているからです。将来NATOはオーストラリア、日本、ニュージーランド、韓国などNATO非加盟の民主主義国家とも緊密に協力することになるでしょう。
この変化によってNATOは国連と競合する機関になるでしょう。その目的は国連で戦力配備にたいしロシアと中国が拒否権を行使することを回避することです。このようなNATOの変化は、世界で新しい戦争を戦う体制作りをめざしているのです。
そもそも戦争のためにつくられたNATO
過去を振り返ってみると、NATOはもともと戦争のための同盟であり、防衛のための軍事同盟ではありません。
1949年4月にNATOが設立されたのは、米ソ対立との関連においてのみ理解できます。この対立は1945年に始まりましたが、二つの政治体制のあいだの体制的対立が激化したことがNATO結成のそもそもの理由だったのです。
ドイツのNATO加盟はNATOが戦争のための軍事同盟へと進む重要な出来事でした。ドイツは1955年にNATOに加盟しましたが、そのために西ドイツに連邦軍を編成しました。この再軍備を巡って西ドイツ社会には厳しいたたかいと広範な政治論争がありました。当時、政治家ばかりでなく西ドイツの人々が情熱的に議論した問題は、ドイツには特別に中立でいる権利が与えられるのか、あるいは西側の体制に統合されるのが最善の方法なのかというものでした。
スターリンは西ドイツの再軍備やNATOへの統合を阻止しようとして、ドイツ全体として限定された軍事力を持つこと、東西ドイツの再統一、自由選挙、中立ドイツなどを提案しました。そうすれば、非同盟国のユーゴスラビア、中立国オーストリア、スウェーデン、フィンランドなどとともに形成される、いわゆるへその緒で、ヨーロッパにおいて2つのブロックを結ぶことが可能になるからです。
1955年、ドイツに置かれていたアメリカ、イギリス、フランスを含む連合国高等弁務官事務所は、ドイツ占領を終わらせ、ドイツの軍隊を禁止した連合国高等弁務官法の西ドイツでの停止を宣言した文書に調印しました。1955年6月、ドイツ連邦軍が結成され、ドイツはNATOに加盟しました。
西ドイツがNATOに加盟した後、ワルシャワ条約機構がつくられ、体制対立はさらに激化しました。
接近のプロセスが始まるのは「安全保障協力会議」が開催される20年後の1975年まで待たなければなりませんでした。
1990年11月19日から21日までパリで開かれた欧州安全保障協力機構(OSCE)サミットで、NATO加盟16カ国とワルシャワ条約機構加盟の6カ国は共同声明を出し、お互い自らを競争相手ではなく、パートナーと定義しました。
このプロセスの終結点がパリ憲章です。パリ憲章の目的は地域的相互集団安全保障体制を構築することでした。相互集団安全保障を欧州安全保障協力機構によって保証するはずでした。欧州とは地理的には大西洋からウラル山脈までの地域で、ロシアもその一員であることには疑問の余地は全くありません。OSCEは、欧州は平和を生み、他の国との対話や協力を受け入れ、経験の交流と共通の安全保障を追求する用意があると宣言しました。 もしこれらの原則や目的が実現されていれば、世界史が変わっていたかもしれません。欧州は独立した平和志向の勢力となり、NATOとワルシャワ条約機構の欧州加盟国は、欧州という共通の家に居場所を見つけられたかもしれません。
しかし同時に2プラス4合意が、この欧州共同の家構想を破壊してしまいました。この2プラス4とは、東西ドイツと第二次世界大戦の連合国であった米、英、仏、露4カ国で、実際には和平条約でした。この合意では、その数ヵ月前にワルシャワ条約機構が解体されたにもかかわらず、東独が西独に統合されてNATOの一員となることになりました。 NATO諸国は1991年11月、ローマでのNATOサミットで新戦略構想を決定しました。彼らはNATOの抑止政策と第一撃攻撃に核兵器使用の選択肢を確認しました。ワルシャワ条約がなくなったのにNATOの存続を正当化するため、サミットはいくつかの脅威を指摘しました。
- 東欧の不安定
- 東欧での核兵器の脅威の可能性
- 中東や地中海地方からの脅威の可能性
このシナリオでは東欧、特にロシア、それに中東が可能性のある脅威とされていますが、これによってNATOの担当地域は北大西洋地域から中東まで拡大されました。この同盟の安全保障は地球的枠組みで考えられなければなりません。
1999年4月のワシントンでのNATOサミットで、NATOはその戦略を世界規模で行動する軍事手段へと変化させました。その1ヵ月後、NATOはユーゴにたいする戦争を開始したのです。
ちょうどこれと同時期にNATO条約の解釈が見直され、軍縮条約である欧州通常兵力条約(CFE)は一時的に執行停止になりました。欧州独自の安全保障体制を構築するチャンスは放棄され、欧州はアメリカの覇権主義的利益に従属することになったのです。
欧州とアメリカの不一致
しかし利害の対立や意見の不一致はなくなったわけではなく、いまでも存在しています。これらの不一致は安全保障の必要性が異なっていることが原因しています。
1990年以降、特にアメリカはNATOの東方への拡大をおこなっています。グルジアとウクライナのNATOへの加盟は重要な不一致点です。これら2カ国の加盟は、バルト海だけでなくNATO南部もロシア国境にさらに近づくことを意味するからです。こんにち、アメリカと西ヨーロッパのあいだでは、グルジア紛争とウクライナとロシアのガス紛争を巡っての不協和音ほど、意見の相違が明らかなものはないでしょう。注目すべきことに、1992年から2001年まで国連安全保障理事会はロシア軍をコーカサスの安定化軍に任命しています。ロシアはこの地域を自国の利益にかかわる地域とみなしています。欧州諸国の反対にもかかわらず、アメリカは圧力を加えてグルジアとウクライナのNATO加盟を主張しています。
もう一つの利害の不一致は、2003年3月のイラク戦争に参戦した有志連合で明らかでした。ベルリン=パリ枢軸はアメリカに従うことを拒否しました。またイランとの関係でも、著しい利害の不一致や行動の不一致があきらかです。
また、最近競合の話題になっているのは、アフリカの関与です。アフリカにとって石油や天然ガス、水、鉱物資源などを管理することは非常に重要です。国連が委任したチャドへの欧州連合の軍事介入はそれを如実に物語る一つの事例です。アメリカとヨーロッパはコンゴやダルフールでも競合しています。
アメリカとヨーロッパのあいだには、資源だけではなく、パイプラインの管理権をめぐる対立もあります。これが表面化したのがグルジアの最近の危機です。ロシアの南端のパイプラインはアゼルバイジャンのバクーからグルジアのトビリシを経てロシア領土からバルカン半島まで、そしてそこから北へと続いています。ナブッコ・パイプラインもバクーからトビリシ、バルカンからトルコ、ウイーンそしてプラハまで延びています。石油の隘路であるグルジアを支配下に置くことは、アメリカがヨーロッパへのエネルギー輸送を支配するためには不可欠なのです。
現在、欧州には二つの選択肢があります。最初の選択肢はNATOやアメリカの率いる軍事行動に従って、決定に参加する権利を認められることです。これは、不滅の自由作戦や地中海でのアクティブ・エンデバー作戦でEUが行っていると主張していることです。
もう一つの選択肢はロシアと独自の協力関係を構築することで、これはウクライナとロシアの天然ガス紛争やイラン、グルジアを巡ってEUが行ったことです。
いまのところはっきりとした政治方針は見えていません。しかし古い戦略と地球規模の軍事介入の意思が結びついて、重大な安全保障問題を引き起こし、それがヨーロッパを分断し続けるかもしれません。
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