2006年日本平和大会in岩国・広島 国際シンポジウムパネリスト発言
T・J・ジョンソン
アメリカ、ワシントン州オリンピア
オリンピア市議会議員
兵器と戦争に対抗して:アメリカ・ワシントン州オリンピアでの行動と教訓
ありがとうございます。私は、ワシントン州オリンピア市議会の議員として、また兵器と戦争に反対し、全人類にとって公正で持続可能な、そして平和な未来の実現をめざす私の地域の力強く広範な運動の代表として、今日、みなさんとともにいることをうれしく、光栄に思います。
私は、みなさんの多くがすでにじゅうぶん理解していること、すなわち、私の国が、外交政策の主要な手段としての戦争と武器への危険な執着に苦しんでいるということを確認するために、今日みなさんの前に立っています。今日、この軍事的狂気は、少なくとも60年前までさかのぼっての国際法や国際協定・条約の枠組み全体に崩壊をもたらしているだけでなく、合衆国憲法によってすべてのアメリカ市民に保証されている基本的市民権を侵害しています。もし現在の状況がこのまま続けば、世界は引き続く紛争、さらなる人々の苦しみ、地球から人類を抹殺しかねない核兵器の使用の可能性に直面します。
しかし同時に私は、合衆国市民として、私の地域で選挙で選ばれ公職につくものとして、みなさんの前で、私は、自分の国の政府の行動が公共の利益とより平和な地球という私たちに共通の目標を脅かすとき、そうした行動に反対し力強く何度でも声をあげる責任を引き受けたのだということを、みなさんにはっきりと述べるために来ました。私がそうするのは、私の国を憎んでいるからではなく、むしろ愛するが故のことです。なぜなら、私は、ノーベル平和賞を受賞したメイリアド・コリガン・マクガイアの「自分の国の政府が道徳や倫理的価値を無視するとき政府に対し異議を申し立てることは、真の愛国主義である」との言葉を信じているからです。
ともに過ごす短い時間の中で、私はみなさんにこの数年間の私自身の活動や、私の地域でのさまざまな反戦と平和構築の具体的なとりくみについて紹介したいと思います。それから、最近の国政選挙の結果と、それがアメリカの軍国主義に反対し平和の大義をすすめる努力にとって何を意味するかについての分析も提供したいと思います。
私がオリンピア市議会に立候補しようと決めたのは、核兵器廃絶などの大きな国際問題に関わりたいと思ったからではなく、環境保護、歩道や自転車施設の拡張、持続可能な地域経済の確立といった私の地域でのより緊急のニーズにとりくみたいと思ったからです。要するに私は、多くの人々と同じく、地域の活動家として市議会に入ったのです。しかし、私はすぐに、市議会議員がとりくむ問題の範囲は、個人的なものから国際的なものまで広範囲に及ぶものだということを学びました。また、国際問題がただちに個人的な問題になり得るということも、わかりました。
2004年5月、オリンピア市は、ワシントン州警備隊から近々予定されている軍艦オリンピア号の寄港に際し治安対策をとるようにとの要請を受けました。オリンピア号はアメリカ海軍の原子力潜水艦で、核弾頭を搭載できるトマホーク巡航ミサイルを多数装備しています。この問題について調査を通じて、私はこの移動型原子炉を私たちの小さな繁華街の港に停泊させることは、地域の最善の利益にはならず、実際には、ブッシュ政権の攻撃的な外交政策への国民の支持を高めることを目的とした派手な広報活動のひとつに過ぎないものであると確信するようになりました。そして私は、地域の平和と正義団体にこの問題について声をあげるようはたらきかけました。また、寄港反対決議を作成し、市議会の大多数の議員から、この決議についての公聴会の開催に同意を得ることができました。この行動は地方的にも全国的にもニュースになり、右翼的なシアトル地域のトーク番組中心のラジオ放送局や軍を支持するホームページが中心となった誤った情報キャンペーンに煽られた人々から、私に何百通もの電子メールや電話が寄せられました。その中には、私と私の家族にたいして直接の身体的危害を加えるという脅迫も含まれていました。翌週行なわれた公聴会で、証言は寄港への反対と賛成が同数に分かれました。しかし、証言に立ったオリンピア市民の大多数は反対の意見を述べました。数日後、市議会が決議についての決定を下す前に、海軍は「作戦上の理由」という表現で寄港を取りやめました。私は、寄港中止は、市議会の懸念と地域の本当に多くの住民が反対したためだと信じています。この経験から私が学んだ主要な教訓は、個人的脅迫や政治的脅しに屈しないことの重要性と、軍国主義とそれが私の地域にもたらす影響についての公開討論の場を提供することの価値でした。
この経験は私に、いかに地域の問題がより大きな世界的な状況にあてはまるかということへの深い印象を残しましたが、同じ年のもっと後に、私は、平和の積極行動主義へと向かう私の旅のなかでより重要な経験をすることになりました。2004年9月、私はオリンピア市の姉妹都市、社町への訪問の際に、広島市を訪れる機会を得ました。それから2年経ったいまでも、そのときの経験がもたらした強い感動は鮮明です。私は、いかなる者も、とりわけアメリカでは、原爆資料館と平和公園を訪れ、大虐殺と破壊の姿を見、被爆者の証言を聞くことなしに、選挙で選ばれた役職につくべきではないとの確信をもって、広島を去りました。また、いまや私はこの経験を生かして、核兵器の恐ろしさと核拡散の危険について地域の人々を教育する特別の義務を負ったのだということも、確信していました。
オリンピアに戻るとすぐ、私はこの決意をいくつかの方向に向けて実践に移しました。まず、一般市民として、私は核兵器の廃絶へ足を踏み出すようオリンピアの地域住民を教育し力をつけることを目的とする、新しい組織、「ビヨンド・ヒロシマ」(広島を越えて)を立ち上げました。「ビヨンド・ヒロシマ」はその後、核問題についての地域啓蒙活動の中心的組織になっています。
次に、私は市議会議員という立場を、核兵器問題に取り組む基盤として使わねばならないと強く感じていました。一部には、地方自治体は国のあるいは国際問題にかかわる筋合いはないという人もいるでしょうし、実際にいました。そういう人たちは、地方自治体の仕事は道路を改修したり、ごみを収集したり、火事を消したりすることだと言います。そして彼らがいうことは、正しいのです。それが地方自治体の仕事です。しかし、そのほかのたくさんのこともまた、地方自治体の仕事なのです。今日ますます互いが結びつき、グローバル化する世界の中では、オリンピア市の周りに線を引き、その線の外側で起こっていることは無関係だという議論はあまりに単純であり、今いるオリンピア市民と将来の世代の両方に質の高い生活を実現するという私たちの地域の目標を損なうものだと、私は信じます。
地方自治体、特にオリンピア市が、ノーベル賞作家の大江健三郎氏が「われらの時代になお荒ぶる神のごとく君臨している」おそるべき武器(訳者注:大江健三郎『ヒロシマ・ノート』岩波新書P.76)と呼んだものから世界を解放するために行動することには、少なくとも6つの正当な理由があります。
第1に、この60年間各国および国際機関がこの問題に意味あるとりくみをすることができずにいる以上、地方自治体は行動せざるを得ないのです。簡単に言えば、核兵器を廃絶するための国内や国際の努力は、有効ではなかった、そして現在破綻に瀕しているということです。主として、国際協力や法の支配をまったく無視するブッシュ政権の侵略的な核兵器推進の姿勢がもたらした不安定な状況にあるのです。今こそ、地域と地方自治体が核兵器のない未来に向かって足を踏み出し、その先頭に立つときです。
第2に、都市こそ行動するのにふさわしいのです。なぜなら都市はもっとも多くを失うことになるからです。文化、商業、人口の中心地として、都市は、テロリストによるのであれ核保有国によるのであれ、核兵器使用の標的にもっともなりやすいのです。州都であり港湾都市であるオリンピアは、特に攻撃されやすいのです。
第3に、核兵器に費やされるお金は、私たちが増大する社会や環境の問題にとりくむために必要としている資源を奪います。アメリカは、1945年以降、核兵器に数兆ドルを使っています。この数年間に、アメリカの核兵器計画への投資は着実に増加しており、ある推定によれば、総額はいまや年間600億ドルにのぼるとされています。地域のリーダーたちが、核兵器への支出と、社会にとってより生産的で生活の質を高めるための投資に使える資源がないことの関連について、はっきりと声をあげることが重要です。ドワイト・D・アイゼンハワー大統領はこの関連について理解し、こう述べています。「作られた銃はすべて、進水された軍艦はすべて、発射されたロケットはすべて、究極的には、食べ物を与えられず餓えている人々、服を与えられず凍えている人々から盗んでいることを意味するのだ。」
第4にオリンピア市は、私たちの地域の生活を向上させ、地球を救うために自分たちの役割を果たすことをめざして、持続可能性を実践するために自らの価値観と政策を一致させるという目標を採択しました。ヘレン・カルディコット博士によると、今日地球上に、すべての男性、女性、子どもを32回絶滅させるのに十分な核兵器が存在します。この事実ほど、持続可能性の目標に反するものはありません。オリンピア市は、地域の持続可能性の分野での先駆者として認められています。しかし、私たちが常に今のような文明の終末まであと15分という状態にあるとするならば、持続可能性のためのこれらの重要な行動をとることが、いったい何の役に立つのでしょうか?
第5に、核兵器の問題をとりあげるとき、私たちは他の地域や国々に、アメリカ国民のすべてがブッシュ政権の無謀で傲慢な威嚇と暴力の政策に同意しているわけではないという明確なメッセージを発信します。私たちは、他の地域に、アメリカには民主的に選挙で選ばれ、われわれの政府の核ドクトリンにきっぱり反対し、核兵器の害悪のない世界をつくるために活動しているリーダーたちがいるというメッセージを送ることができます。
第6に、地方自治体の本来の役割は、われわれが奉仕する人々に敏感にこたえるということです。もしあることが地域の住民にとって重要なのであれば、それは地方自治体の当然の関心事になります。この数年、私の選挙区民は、核兵器の問題に関心をもっていることをはっきりと示しています。ですから、市議会による行動が、当然の問題になるのです。これが、民主政治の本質です。
こうしたあれこれの理由により、私はアメリカによる広島・長崎への原爆投下75周年に当たる2020年までにすべての核兵器の完全廃絶をめざす、平和市長会議の2020ビジョン・キャンペーンを支持する決議を提案しました。このとりくみは、2005年2月2日、オリンピア市議会が平和市長会議支持決議を全会一致で採択したとき、結実しました。オリンピアは、このような決議をあげたワシントン州初の市になりました。
決議の採択後、私は国連での核不拡散条約再検討会議への平和市長会議代表団に参加するよう、要請されました。代表団の一員として経験したことは、感慨深いものでした。簡潔に言うと、私は会議に対するアメリカの、見え透いた寛大さとあからさまな軽視が交じり合った対応に、愕然としました。条約の実施を進めるために国際社会と建設的に協同するどころか、アメリカの代表は、イラン、北朝鮮など核の成り上がりの国々を名指し、その一方で、大量に保有している違法な核兵器の廃絶への自らの責任を認めることを拒否したのです。広島での経験と同じように、私は明らかなリーダーシップの欠如を生めるために地域の行動を起こすこと、私たちの地域の核兵器との共犯関係を終わらせることによってそれを実行するという決意をもって、NPT再検討会議を去りました。これが、オリンピア市を非核地帯にする運動の始まりでした。
2005年5月、市議会は、非核地帯条例についてパブリック・コメントをもとめ市議会での検討に付すという私の提案に同意しました。他の都市、国や地域が行なってきたことについての幅広い調査を経て、私はオリンピア市内での核兵器の開発、製造、輸送、貯蔵、加工、処分および使用を禁止し、市が承知の上でこうした活動に従事している企業に投資したり、個人または法人と契約することを禁止する条例案を作成しました。
条例案は市議会の委員会で3ヶ月間審議され、アメリカによる長崎への原爆投下60周年の2005年8月9日、市民による検討に付されました。公聴会では40人を超える人が証言し、全員が条例制定を支持しました。加えて、私たちにはこの問題について多数の電話、電子メールや手紙が寄せられました。結局、意見を表明した人の85パーセント以上が、条例を支持しました。地域の協力な支持が表明された背景には、公聴会までの数週間に「ビヨンド・ヒロシマ」が行なった広範な地域教育やはたらきかけがありました。「ビヨンド・ヒロシマ」は、フォーラム、講演、ダンスや音楽のパフォーマンス、地域の教会での説教、広島の写真を使ったポスター展示などを行ないました。こうした地域教育が重要な役割を果たした結果、2005年8月23日、市議会は、非核地帯条例を採択しました。市議会の一部のメンバーが今年始め条例の廃止を試みましたが、市民の支持は引き続き強力であり、条例は引き続き有効で、核兵器のない世界をもとめる私たちの地域の誓いのシンボルとして、役割を果たしています。
アメリカ軍国主義に反対する私個人の、そして私の地域のもうひとつの重要な分野は、イラクへの違法な侵略と占領に反対する強力な運動です。オリンピア市民の大多数は、開戦前からイラク戦争に反対し、デモや集会の場やさまざまな地域のメディアを通じて、自分たちの選挙区の議員たちに対して反対を表明してきました。さらに、オリンピアの地域はエーレン・ワタダ中尉、ジェームズ・リー大尉、ケビン・ベンダーマン、スザンヌ・スイフトなど、指揮官の命令にそむいて戦争への参加を拒否した軍人たちを支援しています。
イラク戦争反対の主な焦点のひとつが、オリンピア港です。2005年、17年間の中断を破って、私たちの港から軍事物資の輸送が再開されました。軍による港の使用に対する反対は、この1年で着実に大きくなり、今年5月、重要な転機を迎えました。ストライカー戦闘車両団が、1年間のイラクへの派遣に向けて港の使用を始めたときのことです。それまでにもイラクから帰還した装備の船積みは行なわれていましたが、今回は初めてイラクへの派遣のために港が使われるということであり、私たちの多くは、それが無実のイラク市民を殺すために使われるものだとわかっていました。結果として、反戦活動家たちはすばやく、力強い行動を開始しました。
1週間以上も、市民たちは軍用物資の輸送への抗議行動を行ないました。プラカードを持って立ち無言の監視をする人、スローガンを唱えたり平和の歌を歌う人もいました。一部に、文字通り兵器輸送をストップするために自らの体と投げ出して港への道路を封鎖した人たちがいました。私たちの地域で軍国主義への抵抗がほとばしった、驚くべきできごとで、30人を超える逮捕が出ました。行動がクライマックスに達したのは、5月30日、警察が催涙スプレー、警棒、ゴム弾で抗議行動をしている人々に襲いかかり、数人に怪我を負わせたときです。ひるむことなく、翌日、ストライカー戦闘車両を積んだ船が出港するまで抗議行動は続きました。
私はその週のほとんどの間、抗議行動に参加し、ある時点で後ろに下がるようにとの警察の命令に従っていたにもかかわらず警棒で殴られた数人の抗議者を助けようとしたとしたために、ワシントン州警備隊の隊員から警棒で打たれ催涙ガスを浴びせられました。その直後私は、群集と警察の間で冷却期間を設ける交渉を援助しました。私の行動は地方のメディアに大きく取り上げられ、地域の論争の的になり、一部の人たちは私を裏切り者と呼び、私に辞職し行動への謝罪をするようもとめました。もちろん、私はいずれも拒否しました。私は港での抗議行動での自分の役割を誇りに思いますし、私の行動は、アメリカの法のもとでは明らかに違法な戦争に反対の声をあげるという市民として、そして選挙で選ばれた役職にあるものとして負っている義務に完全に一致するものだったと信じています。そして私は、イラクの人々に対する侵略戦争を支援するために、軍が港を使おうとするならば、再び港での抵抗を行なうでしょう。
オリンピアで進められているもうひとつの重要なイニシアチブは、子どもたちに平和について教えるとりくみです。2001年に、9・11のテロ攻撃のあとに起こった復讐や流血をもとめる声に大変心を痛めたある地域の母親が、ピース・スカウトという組織を立ち上げました。その目的は平和と紛争解決について子どもたちに教えることでした。その後ピース・スカウトは、いくつかの地域の小学校に広がり、アメリカ国内の他の州でも同じグループが生まれています。私は2005年にピース・スカウトに参加するようになり、それ以後、このプログラムの全体的な質を向上させるために、教室の子どもたちや保護者たちと直接かかわっています。私たちは現在、国中、そして世界中でピース・スカウトのプログラムがとりくまれるようになることを願って、組織を合法的法人にする手続きを進めています。私がピース・スカウトに関わることを決めたのは、父親として私の息子が引き継ぐことになる世界について深い関心をもっているからです。そして私は、暴力と戦争の追求にさらなる世代の可能性を無駄に費やしてはならないと、固く信じているからです。
ここで話題を、武器と戦争に反対し、平和をもとめる私たちの具体的な行動から、最近のアメリカの国政選挙の簡単な分析に移しましょう。ジョージ・ブッシュ本人の選挙ではありませんでしたが、出口調査は、アメリカ中の有権者が記録的な数で、イラク戦争へのブッシュ政権の対応に反対票を投じたことを示しています。現職の民主党議員で落選したものはひとりもなかったのに対し、ブッシュと彼のイラク政策に同調した現職の共和党議員数十人が議席を失いました。選挙の翌日、ブッシュはドナルド・ラムズフェルド国防長官の辞任を承認しましたが、おそらく国民の審判を理解したということだと思います。世界に正義というものがあるとするなら、ドナルト・ラムズフェルドはまもなく裁判にかけられ、人道に対する罪で有罪を宣告されるでしょう。
民主党はいまや、下院を固く支配するとともに上院もかろうじて制しており、少なくとも理論上はブッシュ政権のこれ以上の行き過ぎへの抑制になっています。しかし、投票結果がアメリカのイラク政策への明確な拒否を示したとはいえ、アメリカの外交・軍事政策が将来変化するかという点から、その意味を過大評価しないことが重要です。
多くの民主党員は、外交政策の主要な手段としての戦争と暴力という考え方に反対したというより、ブッシュがイラク戦争で無能ぶりや失策を示したと主張して選挙戦をたたかったのです。事実、有力な大統領候補とされるヒラリー・クリントンなどの主要な民主党の指導者たちは、イラクからの米軍の即時撤退に賛同していません。彼らはまた、いわゆる「テロとの戦争」を続けると約束し、アメリカの支配に楯突こうとするイラン、北朝鮮などの国々に対してはむしろいっそう強硬に対応すると誓っています。
民主党と共和党は、ちがいよりも共通点の方が多いことを理解することが肝心です。両者とも、アメリカの国防費の引き上げに賛成です。両者とも、引き続きアメリカの軍事政策の要石として核兵器に依存しています。両者とも最近、NPTへの加盟を拒否し続けているインドにいっそうの核兵器を与えて報いるという、インドとの核協定を支持しました。両者とも、パレスチナの人々への暴力を続けているイスラエルへの軍事援助を続けることを強力に支持しており、いまやその額は1日1600万ドルにのぼっています。そして明らかにどちらの政党も、6人に1人の職を提供しアメリカ経済の支配的セクターとなっている軍産複合体に挑戦することを公約していません。要するに、民主党の勝利は根本的にアメリカの帝国主義的野望を変えることにならないし、アンドリュー・J・バセビッチ教授が「新しいアメリカ軍国主義」とよぶものに挑戦することにもならないということです。
もしアメリカの外交政策の基本的な軌道が変わるとするなら、それは同じように活発な国際運動と協力する、アメリカ国内での大規模で活発に声をあげる草の根のとりくみがあってはじめて、起こることでしょう。突き詰めれば、私たち世界の国民は、アメリカやその他の主要な先進諸国が、統治されているものの意思、国際人権基準および地球の長期的持続可能性にしたがって行動するようにさせなければなりません。
こうした国際的な努力の種は、ずっと前にまかれており、米軍基地の拡張に抵抗し、核兵器を廃絶し、戦争犯罪人を見つけて訴追し、持続可能な地域経済を発展させ、私たちの子どもたちが死の商人ではなく平和のつくり手になるよう教育し、力をつけるための運動が広がる中、世界中で花を咲かせつつあります。
今日とこの大会の期間中の私たちの討論や対話は、この進行中の平和をめざす国際的な連合をつくるプロセスにおける、重要な一歩です。この運動のリーダーとして、私たちは、私たちの誠実さや能力に疑問を感じている人々に、私たちは団結しており、固い信念をもって、人間同士の、そして人間と地球の関係をみちびく新しい平和の文化の創造に全面的に力を注いでいるということを示し続けなければなりません。力を合わせれば、私たちは成功できるし、成功するでしょう。
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